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「日の丸・君が代論議」(色川大吉) [日の丸・君が代]

「日の丸・君が代」の問題を考える上で参考になるようなものを、何回かに分けて紹介していきたいと思います。

今回は、歴史家の色川大吉先生の「日の丸・君が代論議」(『日の沈む国へ―歴史に学ばない者たちよ』小学館、2001年)から、その一部を引用します。

 16歳の少女が新聞に投稿している。「なぜ、国旗に向かって一礼しなくてはいけないの。なぜ君が代をなんども歌わせられるの。なぜ、そうするのか説明できなくては、国を愛することになりません」と。学校でも内容を教えられていないのだ。

 放送タレントの永六輔さんの最近の言葉。「お辞儀をするのは日の丸を人格化しているからで、だれに人格化しているかといえば、それは国民じゃなくて、やっぱり天皇ですよ。日の丸の旗は『日出づる国の天子』のシンボルですね。『君が代』も同じく天皇賛歌と言えます」。

 文部省(当時)の審議官が先日のA新聞紙上で居直っていた。「君が代」が天皇を讃えて、なぜいけないのだ。憲法第1条でも日本国民統合の象徴とされいるのだし、国民がその繁栄をねがうのは当然ではないか、と。この官僚は第1条を終わりまで読んでいるのか。天皇は象徴だが、日本国の主権は国民にあると明記してあるのに。どちらが「上」か判断もできないで審議官とは聞いて呆れる。

 「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ」といわれて100年、この民主の時代に、万世一系の天皇の世を千代に八千代に栄えませという歌が「国歌」としてふさわしいのか。それに曲をそもそもが歌いにくいし、気がめいる。国歌はもっと元気の出る、明るい歌曲が良い。公募して、何度でもコンクールをやり、国民自身が決めれば良いのだ。日の丸については、先の少女の質問にこたえたい。

 もともと日章旗は幕末に、つぎつぎと来航する異国船と識別する必要が生じたために、日の丸を日本国の総船印にしようと徳川幕府が定めたこと起こりとされる。これはその前から日の丸を使っていた薩摩の島津斉彬の意見によるものであった。だから幕府がアメリカに派遣した威臨丸は日の丸の旗を掲げて太平洋を渡った。明治3年(1870)、明治政府はこれを受けつぎ、太政官布告で日の丸を日本国のしるしとした。ところが、その後、陸海軍が大陸での戦争でさかんに使ったために、アジアの人びとからは日本軍国主義の象徴のようにみなされた。そして敗戦後は国民の間にも忌避感情が生まれ、敬遠されていたのである。

 日の丸が復活したのは自衛隊の成立後ごろからであり、東京オリンピックで国際的に再度、認知された。しかし、その後も日の丸を誇示するのは右翼の街宣車か保守党の専売特許のように見られていた。文部省はこの状況を転換しようと、日の丸・君が代に反対する日教組を目のかたきとして闘った。日章旗を掲げてやった侵略戦争の歴史は教えさせず、教育現場に愛国心とセットで「国旗・国歌」を押しつけようと努めた。中曽根元首相らが靖国神社に公式参拝した1985年に、日の丸・君が代の徹底指導の通知を出し、さらに学習指導要領を改訂して、実質的には小・中・高校に強制するにいたった。

 それから10年、自民党中心政権は村山社会党の転向に助けられて日教組を無力化し、日の丸・君が代の完全実施に近づいた。校長の自殺と言う冒頭の悲劇(註:1999年、広島県のある高校の校長が卒業式の前日、文部省や県教育委員会の強硬な実施命令と、職場の教師や父母、生徒らの反対との板挟みになって自殺した)はその幕切れに起こったのである。「国旗・国歌」の議論をこうした歴史的文脈抜きでしていると、権力の「影の仕掛人」たちの術策に、はまるだろう(19〜21頁)。


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